多大な努力で復元された「ホフマン式輪窯」

ホフマン式輪窯の修復された姿
 これまで煉瓦構造物をいくつか紹介してきたが、本稿ではその材料となる煉瓦の製造について見てみようと思う。煉瓦が多用された明治から大正期においては、大浜(堺)や岸和田など大阪近郊にもたくさんの煉瓦工場があったことが知られているが、コンクリートが優越するようになるとそれらは廃絶していき今では見ることができない。本稿では、多大な努力で40年ぶりに舞鶴市西神崎に復元された窯業所を訪ねた。

シアの満州での動きが不穏を告げる明治34(1901)年、全国で4番目の鎮守府として「海軍舞鶴鎮守府」がおかれた。日本海に面して湾口が狭く湾内は波静かという軍港に適した条件を備えていた舞鶴の地が選ばれたのである。初代司令長官は当時海軍中将であった東郷 平八郎。後に日露戦争の勝敗を決した日本海海戦において、連合艦隊司令長官として指揮をとった名将である。舞鶴は山が海に迫っているため、鎮守府の諸施設の整備に時間がかかったようだ。29年に臨時海軍建築部を設置して直営で建設に着手し、30年から軍港の建設工事を開始した。34年に
ア) 鉄骨煉瓦造としてはわが国で最古級という「舞鶴市立赤れんが博物館」、(イ) 「舞鶴赤れんがパーク」にある「まいづる知恵蔵」(左)、「赤れんが工房」(右)、「赤れんがイベントホール」(奥)、(ウ) 橋脚が煉瓦でできているJR舞鶴線第六伊佐津川橋梁、 (エ) 自転車歩行者道に転用されている中舞鶴線4)跡地の北吸トンネル(登録有形文化財(平成14年指定))
図1 舞鶴に残る主な煉瓦構造物
軍港水道北吸(きたすい)浄水場が完成、海軍工廠の前身である兵器廠と造船廠1)が発足して業務を始めている。
 これらの建設のために大量の煉瓦が求められた。その供給を主に担ったのが、由良川の河口近くにあった「京都竹村丹後製窯所」だ。舞鶴には今も海軍の倉庫などの煉瓦建築がたくさん残っており、観光資源として活用されている。これらには京都竹村丹後製窯所から運ばれた煉瓦が多く使用されていると思われる2)
 また、軍港と併せて建設が進められたJR舞鶴線3)にも煉瓦構造物が多い。こちらは、煉瓦の刻印から複数の製造所の製品が使われたことがわかっており、いかに突貫工事で建設されたかが伺われる。
稿で紹介する京都竹村丹後製窯所は、 京都五条に住む竹村 藤兵衛ら5)が30年に興した煉瓦工場で、製品は舞鶴までの10km余りを船で運ばれ海軍に納入された。原料となる粘土や砂は由良川の各地から「ともうち」と呼ばれる小舟で運んだといわれる。
 煉瓦の製法は、おおむね @原料を混ぜ合わせてしばらく寝かせる A調整した土を成型する(これを「素地(しらじ)」という) B温度・湿度を調整した部屋で乾燥させる C温度管理をしながら2日ほど焼成する D自然冷却させる E欠けや傷のないものを選別して梱包する という工程を取るが、このうちB〜Dの作業を窯で行う。この製窯所は、当初は登り窯を使用していたので、この工程を繰り返すたびに点火・消火が必要で、燃料の効率性が劣るほか労働力の定常性でも問題をはらんでいた。そこで、大正末期に、
図2 京都竹村丹後製窯所に築造されたホフマン式輪窯(奥)と登り窯(手前)(出典:参考文献1)
高さ約24mの主煙突と窯の一部を再利用して「ホフマン式輪窯」に改造された。
 ホフマン式輪窯とは、ドイツ人のホフマン(Friedrich Hoffman、1819〜1900)6)が考案して1858年に特許を取得した製法で、わが国では、明治5(1872)年に「小菅村煉瓦製造所」7)に築造したのが始まりと言われる。その特徴は、窯を環状に配置して連続して製造できるようにしたことだ。図4で説明すると、@隣の区画との間に紙の仕切りを入れ素地(しらじ)を運び込む A出入口を閉じる B隣の区画の熱で紙の仕切りが燃え素地が予熱される C前期焼成 D中期焼成 E後期焼成 F焼成が完了する G〜I徐々に冷却させる J外気を入れさらに冷却  K完成した煉瓦の取り出し という手順をとる。翌日は、Kの区画に素地を搬入しBに火をつけCとDの火勢を強めEを鎮火させることになる。隣の区画に順々に燃料を投入することで連続的に火力を維持して作業が続けられる上に、焼成の排熱を隣の区画の予熱に利用するなどの合理性が図られている。
図3 「京都竹村丹後製窯所」のホフマン式輪窯の模型(舞鶴市立赤れんが博物館の展示による)
 ホフマン式輪窯は、かつては全国に50基以上あったようだが、現在は重油を使用するトンネル窯が発明されたことでホフマン式が操業している例はなく、遺構が残っているのもここを含めて4か所だけだとされている。なお、ホフマン式輪窯は、中央に集約した煙突を1本持つものが多いが、本稿で紹介するものは外縁部に11本の煙突を有しており、珍しい形式だ。
都竹村丹後製窯所は、昭和33(1958)年頃に煉瓦の製造をやめたようで、その後40年間放置され、草木が生い茂る荒涼とした土地になってしまっていた。この土地を所有する会社が
図4 ホフマン式輪窯の仕組み
倒産して競売に付されていたものが、平成23(2011)年に高橋 照氏が理事長を務める舞鶴文化教育財団の手に渡り、伐開したところそこにホフマン式輪窯が現れたのだ。ホフマン式輪窯は平成11年に登録文化財に指定されていたが、崩壊寸前で窯には木々が生い茂っている状態であった。その後、文化庁や煉瓦愛好者団体から保存の要請を受けた氏は、これも自分の運命と保存に乗り出すことを決意。
図6 躯体の上面にほぼ1mおきに開けられた粉炭の投入口
図5 修復された窯の内部、崩れた箇所から見学できるようになっている
学識経験者らの意見をもとに修復方法を決めた。煙突は傾いてひびが入っていたので、切断して上部を地上に降ろした。輪窯の躯体は支保工と目地注入で補強を行った。崩れた部分は無理に補修せず、そこから内部を見学できるような配慮がされている。保存のための調査に約2,500万円、修復工事に約9,000万円を費やしたというが、行政からの補助はわずかでほぼ全額を財団で賄ったという。
 修復された輪窯は希望者の見学に供されているほか、観光シーズンには市の観光協会により「赤れんが博物館」とホフマン式輪窯を巡るツアーが企画される。
   
 (参考) 北吸地区に残る主なレンガ建物
番号 元の用途 建築年 構  造 現   況
@ 兵器廠魚型水雷庫 M36 鉄骨煉瓦造2階 赤れんが博物館
A 兵器廠予備艦兵器庫 M35 煉瓦造2階 舞鶴市政記念館
B 兵器廠弾丸庫並小銃庫 M35 煉瓦造2階 まいづる知恵蔵
C 兵器廠雑器庫並損兵器庫 M35 煉瓦造2階 赤れんが工房
D 軍需部第三水雷庫 T 7 煉瓦造2階 赤れんがイベントホール
E 需品庫(電機庫) M35 煉瓦造2階 文部科学省所管倉庫
F 需品庫(第一水雷庫) M35 煉瓦造2階 文部科学省所管倉庫
G 需品庫(第二水雷庫) M35 煉瓦造2階 文部科学省所管倉庫
H 軍需部第一需品庫 T 8 煉瓦造2階 海上自衛隊No.17倉庫
I 経理部衣糧科被服庫 M34 煉瓦造2階 海上自衛隊No.3倉庫
J 経理部衣糧科被服庫 M34 煉瓦造2階 海上自衛隊No.2倉庫
K 軍需部第三被服庫 T10 煉瓦造2階 海上自衛隊No.4倉庫

(補遺) 岸和田煉瓦・大阪窯業
治から昭和初期にかけて、泉州地方は著名な煉瓦の産地だった。需要地が近かった上に土壌が煉瓦の生産に向いていたからだという。
図7 大正13年の岸和田市臨海部の状況(出典:参考文献2)
本稿では、このうち岸和田にあった岸和田煉瓦と大阪窯業をご紹介しよう。
 岸和田の煉瓦産業は、明治5(1887)年に遡る。前年の廃藩置県により岸和田城が廃城となったために職を失った武士への授産として始められたものという。これを発展させたのが、岸和田藩士だった山岡 尹方(ただかた)。16年と18年の天候異変により飢餓に苦しむ人たちを見て、窮民の就業の場とすべく、寺田 甚與茂(じんよも)8)らと諮って20年に「第一煉瓦」を起こす。26年には「岸和田煉瓦」と改称し、折からの煉瓦需要の増大に対応して米国から機械を導入したり焼窯を改良するなどして、わが国でも有数の煉瓦会社に育てあげた。図7は、大正13(1924)年の岸和田市臨海部の状況を示した地図だが、岸和田煉瓦綿業(大正8年に織布事業を兼営して改称した)の敷地に5基のホフマン式輪窯が描かれている。原料となる土は周囲の田圃から蒸気機関車でトロッコを牽引して集めており、地図にはその軌道も描かれている。
 岸和田藩の最後の城主だった岡部 長職(ながとも)は米国留学中にキリスト教に改宗して帰国し、同志社を設立した新島 襄に岸和田への伝道を依頼した。山岡はこれに従ってキリスト者となり、岸和田煉瓦が製造した煉瓦には
図8 図7の左下の海岸から北方を望む、大正末期の岸和田は大工業地帯で煉瓦製造や紡績会社の煙突が立ち並んだ(「泉州の100年」刊行会「目で見る泉州の100年」(郷土出版社))
十字の刻印を入れることにしたという。国の登録有形文化財になっている同志社女子大学ジェームズ館に岸和田煉瓦の製品が使用されているのもこの縁という。このほか山口県庁・県会議事堂や琵琶湖疏水、山陽本線など西日本の広い範囲で使用が確認できるそうだ。岸和田市内でも同社の塀が残っていたが、平成19(2007)年の道路拡張工事で取り壊され、一部が翌年に有志の手で復元された。再度の移転により、今では紀州街道勘太夫橋の脇に保存されている。
 岸和田煉瓦の北には「大阪窯業」の岸和田工場があった。もともと「和泉煉瓦」と言っていたのが明治39年に同社に吸収合併されたもの。図7ではこちらにもホフマン式輪窯が2基描かれている。原料を搬入するトロッコは
図9 保存されている岸和田煉瓦本社の壁、中央に斜めの十字の装飾が見える
こちらは馬が引いたようだ。
 両社ともすでに廃業して、工場の敷地は住宅団地に、トロッコの跡は道路になっている。市民に親しまれている牛の口公園や岸和田中央公園は、大規模な土採り場の跡だ。

図10 岸和田煉瓦の工場は市営岸野住宅(左)などに、大阪窯業の工場跡は岸和田コーポラス(右)になっている 図11 鯔(いな)川に沿う岸和田煉瓦のトロッコの跡は遊歩道になっている
図12 岸和田中央公園(左)や牛ノ口公園(右)は土採り場の跡
(2015.08.06)(2015.10.13)(2018.05.10)

(参考文献)
1. 舞鶴文化教育財団「国登録有形文化財・近代化産業遺産 神崎煉瓦ホフマン式輪窯」
2. 市制記念岸和田要鑑編纂所「市制記念岸和田要鑑」






1) 造船廠は、当初は艦艇整備ができる程度の設備だったが、舞鶴海軍工廠に組織改編(36年)された後は、徐々に設備を充実させてわが国の駆逐艦建造の中心として終戦まで指導的立場をとり続けた。戦後は、飯野産業が設備を引継いで造船業を継続した。 会社は飯野重工業、舞鶴重工業、日立造船、ユニバーサル造船と変わり、現在はジャパン マリンユナイテッド舞鶴事業所となる。民間の造船所となった現在でも艦艇の建造は続いている。

2) 京都竹村丹後製窯所は、製品に製造所を示す刻印を施さなかったので、それが使用されていることを実証するのは難しい(組成分析により原料となった粘土の産地を特定する必要があるが、そのような調査は進んでいない)。

3) 綾部〜東舞鶴間26.4kmの路線。舞鶴へは京都から私鉄の「京都鉄道」が路線を延ばすことになっていたが、日露戦争を控えていたにも拘わらず資金難のため事業が遅延していたことから、官設で福知山〜綾部〜新舞鶴(現在の東舞鶴)間を事業化。明治37(1904)年11月に開通して、同時に福知山まで達した「阪鶴鉄道」に貸与されて供用した(同年2月に始まった日露戦争には間に合わなかった)。

4) 舞鶴線の支線のひとつの通称で、東舞鶴〜中舞鶴間3.4kmの路線。舞鶴鎮守府への兵員や物資の輸送を主な使命とし、戦後は戦場からの引揚者を運んだ。国道27号の整備などで昭和47(1972)年に廃止。右は、同年改測の国土地理院旧版地図で、東舞鶴の西で分岐して北吸を経て中舞鶴に至っているのがそれ。

5) 京都竹村丹後製窯所の南西にある「湊十二社」に奉納された手水は、上屋の柱と壁が煉瓦でできており、井筒の内側に彫られた文から竹村のほか薩摩 治兵衛、山田 宗三郎の3名の共同事業であったことがわかるという。

6) ホフマンは、ドイツのグレーニンゲンに生まれ、ベルリン王立建築学校に学び、1858年から製陶業に従事して、同年にホフマン式輪窯の特許を取得した。煉瓦をはじめ石灰やセメント製造にも使われて、築造した窯は1000基に及んだという。ホフマンは、自ら煉瓦工場を経営しつつ、1865年に「ドイツ煉瓦・石灰・セメント製造聯盟」を創立、1870年には王立建築資材研究所をベルリン建築大学構内に設立するなど、煉瓦技術の向上に尽くした。

7) 銀座の煉瓦街を建築するための煉瓦工場で、現在の東京拘置所の位置にあった。円形のホフマン式輪窯が3基あったが、明治18年にワグネル(Gottfried Wagner、1831〜1892)の指導により煉瓦が均一に焼成しやすい楕円形に改良され、併せて燃料を薪から粉炭に変えている。なお、ワグネルは、ゲッチンゲン大学で数学物理学博士号を取得した後、フランスやスイスでいくつかの職を経て慶応4(1868)年に長崎に来て石鹸工場の設立に携わるが、製品開発がうまくいかずに工場が廃止されたところを佐賀藩に雇われ有田で製陶の指導に当たった。その後、大学南校(現在の東京大学)のドイツ語教師になり、京都舎密(せいみ)局や京都医学校(現在の京都府立医科大学)で理化学教師、東京職工学校(現在の東京工業大学)で窯業学教師などを務めた。新たに「旭焼」を開発したほか、化学の知識をもとに青磁や七宝の研究を行っている。

8) この後、寺田は和泉銀行・岸和田紡績・東洋麻糸紡織などを興し、地方財閥に育っていく。